カルテを開示することの意味

                

○インフォームドコンセントの問題

 医師と患者の間で、意志の疎通をよくし、両者間の関係を円滑にするのは望ま

しいことである。しかし国や社会が異なると、その意味するところは異なると思

われる。

 

医療の情報化

ここの議論の欠点は競争原理の追求と、医療の市場化と、医療の質の向上との

位置関係が明確に分けられていない。ただ競争原理を導入して医療の質を向上さ

せようといっているに過ぎない。市場化の副次作用に言及されていない。そうい

う意味では視野が狭いといわざるを得ない。医療の質の向上はどうすべきかとい

う視点からの話と、アウトカムの議論をすべきではないでしょうか。

 

カルテ原則開示・日本医師会が指針

 日本医師会(日医)は12日、カルテなど診療情報の提供について、「患者の求

めがあれば原則として応じる」とする独自の指針をまとめた。情報提供を医師の

「倫理上の責務」と位置づけ、正当な理由なく開示を拒否する医師に対しては、

医師会が指導することも盛り込んだ。今年10月にも全国の会員に指針の順守を求

める。一方で、法律で診療情報の開示義務を定める「法制化」については、あく

まで反対姿勢を貫いており、厚生省の検討会が昨年打ち出した方針と対立する内

容となった。

 指針によると、情報開示を請求できるのは患者本人や代理権を持つ親族などに

限られ、遺族は含まれていない。医師側はカルテや看護記録など診療記録の閲覧

や複写の要求に応じることとし、場合によっては代用となる要約書でもいいとし

ている。

                以上1999年1月13日日経ニュース

以上に賛成

1)司法の分野では、カルテ開示はすでに確立している。

2)医療の現場で法制化する意味はない

 医療というものが、脆弱で不安定な「信頼関係」や「おもいやり」という

物でなりたっている世界に、法制化による「市場化」や「契約」概念を持ち込

むのはいかがなものか。信頼関係が崩れたら、これは司法の分野の話になる。

3)医療の質の向上は当然図るべき。もっと効率の良い方法は他にある。


説明義務と同意

1)日本においては司法の分野で、その存在がすでに確立されている。

2)84年には、市民運動として患者の権利宣言案がでた

医師と患者の関係は

1)情報の非対称がある。

 確かにパターナリズムは、医師と、患者の同等な関係があれば乗り越えられ

 る。情報公開はすべきである。ところが、まず、患者と医師の間では情報の

非対称があり、独立した自由な関係とはいえない。患者は弱者である。パターナ

リズムをまったくゼロにするの不可能である。弱者とは知識の面と、依存心であ

る。どんな方でも病気になれば、自分の弱味を医師の前にさらすのであり、救け

て欲しいという依存心が出る。一種の退行です。

 

2)人間関係の曖昧さ

 アメリカの場合は、インフォームドコンセントは、独立した権利主体、人格主

体としての患者への説明と同意という関係でなりたっている。

 インフォームドコンセントの前提は、「独立した権利主体、人格主体とし

ての患者」に、「同じ権利と人格主体である、医師」が説明して、同意を

得てはじめてなりたつわけです。情報の非対称がある限り、「すべて」

は無理です。患者が自己決定するためには、患者さんが、「独立した

人格」で、「十全な自己決定能力がある」ということが前提です。

 日本の場合厄介なのは、個人の決断に基づくはずの、自己決定が、不明確に行

われる。むしろマターナリズム(母親的包容主義)というべきものである。この

ようなマターナリズムの存在するところでは、患者は重大な事項について、自己

決定することは難しいのはもちろん、手術、検査、麻酔等の、必要性、危険性に

たいして、主治医が用意する、同意書へ記入することさえ、違和感や、抵抗感を

感ずる。これは日常よく見られる光景である。もちろん、自己の意思表示は大切

であるが、現在の日本で、書類にされた定型化された文書による契約を称揚する

のはいかがなものか

 現時点では、特に日本では医師と患者の関係は基本は、契約関係よりも、「人

間同士の思いやり」という実にあいまいな信頼関係におかざるをえないと考え

る。そういう日本的現状のなかで、司法において既に確立している、説明義務を、

信頼関係という不安定な関係でなりたっている、医療の現場に、屋上屋根を重ね

るごとき法制化する=契約の概念を持ち込むのは「他人への思いやり」という価

値を忘れた、悪しき制度化ではないのか。法制化は逆に医師の自己責任の放棄と

形式主義への退行であると考える。患者へすべて情報を流して、決定させるとい

うのは行き過ぎであろう。

 都市化してくれば可能性は高くなりますが、ただマターナリズムの社会がそ

う急激にパターナリズムの社会に移行するかは疑問です。それこそ日本の文化が

変る(訴訟が多発すれば)ぐらいでないと。

 

 目的は「医療スタッフと患者サイドが医療行為に対して共通認識を持って対処

するための手法である。

 

○カルテの価値の低下

医療行為においては、診療録にすべての行為を正確に記すことは当然ですが

医療には揺らぎが存在し、手術などは誤解をおそれずにいえば、うまくいくほ

うがおかしい。必ず反省が記載されている。そういうカルテを患者さんに見せ

て、すんなりいくとはとうてい思えない。現場が混乱するだけ。かつカルテの

記載が防衛的になり、著しく価値がなくなる。

 

○カルテの標準化

実際、現状では、診療記録は標準化もされていないし、日本語と外国語が混

在している、病名等も標準化されていないなどのさまざまな問題がある。患者さ

んが理解できるとは思えない。説明にはよくできたサマリーがベストと考える。

 私の経験でも、裁判の事例でも、関係者がカルテを読めない例は多々ある

 

○既に実施している

 医療の現場(特に入院)では、すでにかなり細かく説明している。そういう

場に、契約の概念をもちこむことで、微妙な信頼関係を壊して、患者と医師の

双方に法制化のメリットが、なにかあるのか?

 医療現場の実態を知らず、カルテ等の整備も進まず、社会の成熟も伴わない状

況で、コンセンサスもない、カルテ開示の、単に法制化により「説明と同意がす

すむ」という、認識のまことに教条主義的な感覚が信じられない。

従って反対である。法制化で得るのは医療の荒廃である。カルテ開示は医師と

患者の話あいのなかで、効率よく行えば良いだけであろう。現場に任しておけば

良い

 あくまで医師が自己の努力で質の向上を図るべきです。お上が規定すれば同時

に裁量権をなくすことになります。クリテイカルパスもEBMもDRG/PPS

も医師が主体をもって行うべきです。

○信頼関係と思いやり

 マターナリズムと情報の非対称の存在する社会では、「信頼関係」と「思いや

り」のある医師対患者さんの良好な関係を作ることを大切にすべきで、そのため

に医師の倫理感の向上や、医師会の情報公開をして、国民の理解を得ること

あるいは「医師自身の手」で質の向上を図るべきということです。

信頼関係を構築するのに、契約関係はぎすぎすした人間関係を作るだ

けではないのか。それこそアメリカみたいな契約社会を作るのを助長す

るだけなのではないでしょうか?

○文書化するということの落とし穴

 日本のようなマターナリズムの支配する社会で文書化するというのは、

アメリカのような多民族国家でパターナリズムの社会で文書化するのと

は意味が異なってくる。それこそおかしな事がおこる。たとえば日本では

、現在治験は危機に瀕しています。

 経済でいえば、グローバルスタンダードなどというのはない。あるのはア

メリカ型の市場経済です。経済でも医療でも、その国の社会の成立ちと

密接に関わっている。文化を土台に構築しているわけです。

 アメリカという国は、多民族国家で国語も統一されず、文化も異なる。

そういう社会では最低限の共通ルールを作って自由にやらせないと意志

の疎通自体もできないし、まとまらない。いきおい何でも文書化し、それを

普遍化して、法治国家を作らざるを得なかった。そうでないと国自体がな

りたたない。それが経済の博奕場の原則とたまたま一致したからパワー

を持ったということではないでしょうか。当然ある程度普遍性もあるので

しょうが、日本の市場はまた成立ちが違う。

 

まとめ

 契約関係は、医療の市場化である。司法の分野で確立しているものを

わざわざ医療現場に持ち込むには慎重であるべき